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理論のココロ
一口に、理論を勉強する、といっても、それはいくつかの段階に分けることが出来そうだ。それを物語チックに説明してみる。

第一段階:表面的な学習
経営学を勉強しようと決めたミチオくん、ネットで経営学の本を調べてみた。どうやら経営学といえば、ポーターという人の本を読めば良いみたいだ。そこでミチオくんは早速Amazonでポーターの本を買ってみた。
ポーターの本を読んで、「結構ムズカシイぞ、学問してるってカンジだ」と早くも勘違いし始めたミチオくん。ファイブフォースモデル、バリューチェーン、聞きなれない横文字に段々憧れを持ち始めてきたようだ。

第二段階:理論の振りかざし
経営学の専門用語をちょっと覚えたミチオくん。試しに周りの人に語ってみた。「やっぱりー、ファイブフォースに基づいた分析っていうのがー、経営の肝だよねー」なんていう意味不明なことを語るミチオくん。周りの人は「やれやれ」といったカンジでミチオくんを見ている。

第三段階:壁
周りの人の反応がイマイチで、ちょっと不機嫌なミチオくん。論より証拠だと思って、聞きかじった理論を元に、実際に企業を分析してみた。ところが、だ。人の作ったモデルに情報を当てはめて、問題点をあぶりだすことはできる。けど、「じゃあどうすればよいのか」という解決策はミチオくんには全く思いつかなかった。考える力がないんだ、と思ってミチオくんはため息をついた。
「そっか、僕は、欠点の指摘しか出来ない、ただの評論家でしかなかったんだ」

ここまでのミチオくんをみていえることは、通り一遍の知識では何の意味もないということである。

表面的な学習だけでは、いざというときに勉強したことが出てこないし、理論を振りかざしているだけでは、何も意味あることを生み出すことは出来ない。第一段階や第二段階で止まってしまうと、結局、壁にぶつかってしまい、勉強したことが何も役に立たないで終わってしまうのである(もっとひどいのになると、そもそも壁にぶつかっていることにすら気付かない。いつまでも「ファイブフォースが経営の肝だよねー」などと語って終わる)。求められるのは、一歩踏み込むことだ。そして、それが第四段階の学習だ。

第四段階:理論のココロ
経営書を読み漁ったミチオくん。学者がどのような現象を見て、どのような問題意識を持ち、現象をどう一般化して理論をつくっていったのか、それを熱心に勉強していった。今までは理論をどう使うかばかり勉強していたが、壁にぶつかってからは、理論がどのような問題を解決するために作られたのか、その成り立ちまで勉強していった。片っ端から一つ一つの理論を深く深く勉強していくにつれて、名高い学者がどのような視点で物事を考えているのかを知ることが出来てきたため、ミチオくんは徐々に経営学的なセンスが高まっていく感覚が芽生えてきた。例えばニュースをみても、「あ、あれはあの理論で説明していたことと同じ現象だ」「あれ、これはどのモデルでも説明がつかないぞ。じゃあちょっと自分でモデルをつくってみよう」といったように、徐々に世界の見え方が変わってきたのであった。

第四段階では、ミチオくんの学習内容に大きな変化が起きているのが分かる。

既存の理論を学ぶとき、その理論がどういう問題意識を元に作られたのか、何を説明するために作られたのか、そういった理論成立の背景レベルからの学習までしなければ努力は徒労に終わる。ミチオくんが壁にぶち当たったのは、理論の内容を手っ取り早く勉強してちょっと偉くなった気がしたところで満足してしまったからだ。必要なのは、一歩踏み込むことだ。理論が作られていった背景まで考えていけば、偉大な学者がどのような視点で考えているのかを学べるため、自分が理論を作るときにも役に立ち、そういうことが未知の問題を解決する土壌を育てることにつながる。ここまでやって、はじめて本当に理論を知ったといえる。そうなると、世界の見え方もずいぶん変わってくる。理論のココロを知ることが、新しい世界を切り開いてくれるカギなのだ。

この物語はフィクションです。
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論文執筆とフレームワーク構築力
大前研一によると、自社の現状分析をするときには、既存の経営理論に当てはめて分析するのではなく、自分でフレームワークを考えて分析していく必要があるそうだ。経営理論がどんな状況にでもあてはあまる、というのは理論に対する過剰期待であって、実際には理論通りに行かないことが多い。だから理論的フレームワークくらいは自前で考えられるくらいの思考力が必要とのこと。

そういう意味で、論文執筆という作業は、自前でフレームワークを作る上で有益なものになるのかもしれない。自分で選んだケースを通して既存の理論での限界を見つけ、その上で、人に新しいものの見方を提供するような理論を構築する。そうしてそれがその研究分野に新しい考え方を提供するような筋の良いものであれば、それは良い論文になる。良い論文が書けるということは、筋の良いフレームワークを作る能力が高いということだ。つまりいい論文が書けるように訓練することは、将来働く上で組織が抱えている問題の構造なり目に見えない仕組みなりを見抜く眼を育てると言うことになる。組織でトラブルが起きたとき、戸惑う人々に対して問題の本質が見えるようなフレームワークを提供し、問題解決に導くという、なんともMBA的なリーダーシップの基礎を鍛えるのが論文執筆なのかもしれない。

既存の理論を勉強して「スゴイ、スゴイ」というだけでは不十分だ。論文執筆を通して、既存の理論の限界を冷静に見つめ、そうした限界を乗り越える理論を自分で作るという作業が思考訓練として大変有益である。しかも、大学(院)なら、こうした指導が個別指導か少人数指導で受けられる。大学(院)によっては論文執筆のない大学もあるようだが、それは上記の意味で、あまり感心することではない。というか、もったいない。

なので、もっと精進することにします。ハイ。がんばります。

大きな理論と小さな理論
最近になって気になりだしたことを書く。

どうやら、一口に理論といっても、2通りあるようだ。それをここでは便宜上、大きな理論と小さな理論と呼ぶことにする。

大きな理論とは、その分野の研究の方向性を定め、その後に発表される理論の多くが土台とするような理論のことである。例えば、知識創造理論は大きな理論に当たる。知識創造理論が発表されて以後、知識創造理論を土台とした様々な理論が発表された。知識創造を可能にする組織デザインとか、知識創造を促すコミュニティ作りだとか、知識創造企業へ向けた組織変革だとか、そんな感じだ。その後の研究の土台になるがゆえに、知識創造理論のような大きな理論は、引用回数も必然的に多くなる。なので、大きな理論の特徴の一つとして、引用回数が際立って多いということがいえるだろう。

一方、小さな理論とは、大きな理論の存在を前提にした理論のことである。大きな理論という土台の上でしか活きることの出来ない理論といっていい。しかも、小さな理論自体はその後の研究の土台となることはない。あったとしても、稀である。それゆえに小さな理論は引用回数が少ないと言う特徴があると言える。例えば、知識創造を可能にする組織デザイン研究などは、あからさまに知識創造の存在を前提にしている。もし、万一、知識創造理論が否定されるようなことになれば、こうした研究成果も連鎖的に否定されることになる。

大きな理論と小さな理論のイメージはこんな感じ。
201010251757000 (1)

ただし、大きな理論である知識創造理論にも、小さな理論の側面をもつ。なぜなら、知識創造理論は暗黙知の理論の存在を前提にしているためであり、暗黙知もまた歴史に名が残るほどの大きな理論である。それを考えると、小さな理論の土台たる大きな理論もまた、何らかの土台を必要とするといえる。

研究者の中でも偉大と言われている人は、概ね大きな理論を作った人である。野中郁次郎しかり、ポーターしかり、コトラーしかり、他にもケインズ、シュンペーター、ニュートン、アインシュタインなど。彼らの研究が発表されて以後、その分野の研究の方向性は大きく変わっている。

そう考えると、偉大な研究者になろうとすれば、大きな理論を作らなければならないのかもしれない。

社史を手に入れる
神奈川県立川崎図書館は国内最大級の社史蔵書を誇る。
そこに行けば、およそ社史と名のつく書物はほとんど手に入るという。

一度、行ってみたい。
いや、
行く。
絶対。

そこなら電産とマザックの社史が同時に手に入るのだ。
最寄りの図書館に届けてもらうこともできるけど、どうせなら、行って、そこでプラプラして、リアルな場を体験したい。

古びた思想の使い道
マルクス主義なんていっても、今や賞味期限の切れた思想。
「マルクスの思想が・・・」なんていっても、怪しまれるのがオチ。
でも、たとえ思想そのものが今では使い物にならなくても、それだけでマルクスが全否定される理由にはならんようだ。

若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)
(2010/06/18)
内田 樹石川 康宏

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何やら全共闘っぽいタイトルだが、しかし、書いてあることは冷静。
マルクスの思想の紹介を通して、マルクスがした世界の見方を学ぼうという主旨であるようだ。

マルクスの世界の見方は恐ろしく巨視的。何せ社会の仕組みや歴史をまるごとつかみとろうというような問題設定で思想を展開してるんだから。大胆過ぎです。普通はなるべく問題の論点を絞って絞って、その上で議論を進めていくのに、マルクスってば、「世界を獲得するためにはどうすればよいか」なんていうぶっ飛んだ問題設定で議論し始めるんだもん。ただ、それでもすごいところは、そんな広すぎる問題設定でもブレずに理路整然と議論を進めていくところ。そこらへんは、今では否定されているとはいえ、マルクスの天才性ゆえにできたことなのかな。そういう凡人にはできないくらい大胆な視角でものを考えたマルクスの考え方を学び取れというのがこの本の主張の一つみたいです。実際、レヴィ=ストロースも論文を書くときには、まず、マルクスの本をパラパラ読むのだそうです。そうすると、頭の中のモヤモヤが晴れて、自分の思考の枠組みがいかに狭いものであったのかに気付くんだとさ。つまり、思想そのものを学ぶためではなくて、彼のものの見方を学ぶために読んでいるみたいです。

ふーん。そういう使い方もあるのか。じゃあ、レヴィ=ストロースのマネして卒論の参考にでもみようか。



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