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大学へ行くことの意義
大学の定員割れによる閉鎖が相次いでいる。そもそも日本には大学が多すぎるのだ。一時期新設大学が次々と現れ、大学全入時代と騒がれた。しかし、少子化の進行により、定員割れの大学が相次ぐと、一転して新設大学が淘汰されていくようになって、今のような定員割れによる閉鎖現象が観られるようになった。

こういう話は、新設された無名大学に限った話に思えるかもしれないけど、実際そうでもないらしい。というのも、最近の高校、それも偏差値が高く進路指導に力を入れている高校は、必ずしも日本の名門大学に合格させるような指導をしていないのである。
「先生、東京工業大学に行きたいでーす」
という学生がいれば、
「バカ、お前、中国やインドの高校生は高校を卒業したらアメリカの大学に留学してメキメキ力をつけてるんだぞ。日本の大学になんて行ったって、そういうハングリーな奴に出会えるきっかけが少ないから、大学を卒業するころには中国やインドの若者に負けちまうぞ。だから東工大なんてケチな大学に行かないで、MITに行け」
なんて指導をしている高校もあるようだ。

こうなると、日本の名門大学もうかうかしてはいられない。優秀な学生が海外に流出してしまっては、日本の大学のレベルがますます落ちてしまう。そうした現状を心配してか、東大はマッキンゼーに依頼して、大学の制度改革を進めている。


高校生がどこの大学に行こうとも、それは僕の知ったことではない。それによって日本の大学が淘汰されたら、それはそれでいいじゃないか。むしろ、日本の、それも名門の大学が半ば強制的に体質改善をして、自分たちの魅力を高めるための良い機会になりそうなので、高校生の海外流出、大いに結構と言いたい。

僕としては大学どうこうよりも、そもそも大学に行くとは一体どういうことなのかということを高校生に考えさせるべきだと思う。なんだか偉そうな物言いになってしまったけれども、コレを考えることなしに大学に行くのは危険ではないかとさえ思うのである。たとえ日本の高校生がハーバードに行こうが、MITに行こうが、静岡県立大学に行こうが、そもそも大学とは、という問題意識を持たずに行くのは、他人のことには無関心な僕でも、さすがに待ったをかけたくなってしまう。

大学生という存在は一見すると社会的に奇異な存在であると思う(浪人生という存在はそれ以上に奇異であるのは疑いないが)。時間割次第では小学生よりも暇だし、テストにさえ出ておけば授業に出なくても卒業できる場合もある。

そこで問題となるのはこの時間の使い方だ。この膨大な時間をどう使うか。社会人になると遊べなくなるから今のうちにたっぷり遊んでおくため、という人が大多数だと思う。僕もそうだと思っていたし、高校生の頃は大学に入った後の気ままな生活を夢見ていた(もちろん今も十分気ままに過ごしているが)。でも、仮面浪人という極めて奇妙な経験をしてしまったがために、普通の大学生的生活を送ることはできなくなってしまった。周りで皆が気ままで楽しげな生活をしているのを尻目に、一人寂しく受験勉強をしていた。もちろん、自分で選んだ道なのだから後悔はしていないつもりだったが、正直言うと、これはかなりつらい。孤独には強いつもりだったが、しょっちゅう自分が今していることの意味について考えたくなった。しかも結局今の大学に残ることになってしまったがために、僕の2年間は何だったんだ、と一時期真剣に悩んだと思う。

そうして、家に引きこもって、難しげな本を少しだけ読んでみた。格好をつけて、ドストエフスキーや三島由紀夫なんか読んで、「人生とは?美とは?」なんていう文学青年を気取っていた。でも、残念ながら僕はそんなに賢くないため、格好だけで終わってしまった。難しげな本の内容なんてさっぱり理解できなかった。でも、そんな中でも印象に残った本があった。阿部謹也の『学問と世間』だ。

彼は、大学教育の根幹はリベラルアーツにあると説いていた。文科理科に囚われず、全方位的な知を体得することが大学で学ぶことの意義だと言っていたと思う。これだ、と思った。自分のやっていたことが無駄ではなかったかもしれないと思えたからだ。受験勉強の良いところ―それも国公立受験のように科目数が多い場合―は、幅広く物事を知る基盤ができるということである。受験で生物を勉強しておけば、食品栄養科学部の先生の生態学の講義が理解できるし、自然科学系の授業にもついていける。これらは何だか自慢げに聞こえるかもしれない。でも、はっきりいっておくけど、これは僕にとってはせめてもの言い分なのだ。僕の2年間は無駄ではなかったのだ、という自分の過去に対する僕なりのみっともない言い訳なのだ。

少し話がずれた。元に戻す。教養を身につけることで、全方位的な知を身につける、というところから話を続ける。こういう、幅広い教養を身につけることで、社会を、世界を多角的に観ることができる。多角的に観れると、社会で起きる現象が面白いと感じるようになる。そうして、時々人と違った見方ができると、ちょっとだけ優越感を感じる(これは教養を身につけることの主目的ではないけれど)。要するに、色々楽しくなるのだ。で、そうした教養を身につける場として大学があり、大学の一般教養科目が存在するのだと思う。つまり、大学での勉強で最も重要な時期は、大学の教養科目を学ぶ時期であり、ここをいかにしっかり勉強するのかということが大学生活の善し悪しを左右することになる。

これは僕なりの結論だし、他人に押し付ける気はさらさらない。ここで言いたいことというのは、なぜ大学に行くのか、というのをしっかり考えた方がいいということなのだ。僕の場合は、教養を身につけ、全方位的な知を体得し、多角的な視野をもつこと、それが大学へ行くことの意義だ。そうして、自分なりの社会に対する考えを何らかの形―それは小説でありたい―で表現し、それを社会に還元するという夢も持てるようになった。より具体的には、自分の感じる孤独感・不安・脱力感を社会システム論的に観たりした結果を、小説という形で表現したい(このように小説とは物語の面白さだけではなく、作家のものの見方を知ることにこそ面白みがあるのだ)。単に高校の進路指導部から、大学へ行くのは当たり前だと言われたから、というだけでは、ちょっと寂しい。

こういうわけで、高校生にはなぜ大学に行くのかというところをしっかり考えてほしいのだ(こう書くと、やっぱり偉そうに聞こえる。もっと良い表現は無いものか)。もちろん、そう考えた結果が、大学生活の膨大な時間をバイトに費やして、たくさんの友達を作る、というのであれば、それは本当にいいことだと思う。そういう、大学での山のようにある時間をどう過ごすか、ということに対して自分なりの目的を持ってほしいと思うのである。そうすれば、たとえどんな大学に行ったって、それなりの成果が出せると思う。

大学へ行くのが当たり前の風潮だからこそ、こういう基本的なところで差がつくのかもしれない。僕はこれに気付いたのが少し遅かった(でも卒業する前に気付いたのは良かった。過去オール善なのだ)。


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(2001/06)
阿部 謹也

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